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スペシャリストコラム

文化財やミュージアムのDXの意義や課題、
理想について
― Digital×北斎展に添えて ―(前編)

久保田 巖(くぼた いわお)

久保田 巖(くぼた いわお)
株式会社アルステクネおよび株式会社アルステクネ・イノベーション代表取締役CEO、CTO

2012年にデジタル文化産業の創出を目標にアルステクネを設立。超高品位三次元質感画像記録処理技術(μ単位の立体質感を再現する技術)DTIP(特許取得)を中核とした次世代型文化財デジタルアーカイブ技術「Re-Master Art」を開発。以降、仏オルセー美術館をはじめ、国内外の数多くの美術館、寺院などの文化財のデジタル化と認定データ制作、活用事業を手掛ける。2020年からNTT東日本、 NTT ArtTechnologyとの協業により、世界初のネットワーク分散型デジタルミュージアム事業「Digital×北斎」を推進。
著書に『臨場鑑賞 生まれ変わったオルセーの美』(エムディエヌコーポレーション)、『北斎と廣重 美と技術の継承と革新』(リックテレコム)、共著に『地域活性化へ 文化・芸術のデジタル活用』(リックテレコム)など。
https://www.arstechne.co.jp

2022年6月。東京新宿に一枚の巨大天井絵の推定復元図が公開され、多くの人々を魅了しました。その作品の名は「岩松院本堂天井絵 鳳凰図」。通称、八方睨み鳳凰図と呼ばれるこの作品は、日本が世界に誇る浮世絵師 葛飾北斎が晩年に描いた最大の肉筆画です。本物は、その名のとおり長野県小布施町にある岩松院 本堂の天井に描かれています。本来は現地に足を運ぶしか観ることができないこの作品が、240kmの距離と170年余の時を超え、未完成部分も含めた絢爛豪華な装いで推定復原された背景には、緻密な調査と考察、そして「デジタル技術の力」がありました。今回は、このプロジェクトの責任者のひとりである株式会社アルステクネの久保田 巌氏に「文化財やミュージアムにおけるDX」について、前後編に分けて語っていただきます。

文化財やミュージアムのDXの可能性

日々目覚ましく進化するデジタル技術は、わたしたちの生活に大きな恩恵をもたらしています。同時に大きなリスクも孕んでいます。InputとOutputの先にいるのは、感情を持った生物であり、また、高速通信化では情報の伝達速度や影響力が加速されます。そして悪貨は良貨を駆逐するものです。

例えば、現在のネットワークにおけるコンテンツの評価は、主にトレンドや数量によるものですが、当然、誹謗中傷や反社会的情報の拡大のリスクと隣り合わせです。    

根本的リスク回避のためには、美や善悪、個性や質の判断という新たな概念が必要です。しかし、これらは対比的な概念であり、比較対象がないと判断することはできません。同時により良い「美、善、個性、質」を生み出す行為は、往々にして非効率です。

こうした美、善悪、個性、質など人の感性を数値化する上で、文化財やミュージアムのDXが果たす役割は非常に大きいと考えます。なぜなら平面的、量的なデータの蓄積だけではなく、地域に紐づく長期にわたる歴史的データを蓄積し、検証していくことが必要だからです。適切な記録方法、データベースの構築方法やデータの質や価値を定義する方法を考えなくてはなりません。達成できれば、文化財やミュージアムのDXは、国や地域、そこに暮らす人々の進化に寄与する可能性を秘めていると言えるでしょう。

歴史を紐解くと、その可能性を示唆する事象があります。例えば、現在では考えられない広大な文化圏を誇っていた古代ヘレニズムの帝国では、文化の維持、発展のための仕組みとして、ムセイオン(ミュージアムの語源)を作り、ここにさまざまな情報を保存し、研究する事で、多くの賢人を輩出しました。また、征服した地域に彫刻や石碑などのレプリカを配置し、文化を伝播することで、広大な領域に同一文化圏を構築していました。

文化財は、人の感情や心のあり方までをも含む、地域に紐づく創造性という情報の記録物と言えます。都市、コミュニティの継続と発展には、システムや法だけでなく、固有の文化を継承するためのデータベースが必要であり、そのための文化財やミュージアムにおけるDXの推進は、これからのSociety5.0やSDGsという未来志向的見地から言っても、非常に重要な課題であると考えます。

文化財やミュージアムの機能と役割

それでは文化財とミュージアムの機能と役割から、そのDXの方向を考えてみましょう。
 
文化財とは、日本の文化庁では「国の長い歴史の中で生まれ、育まれ、今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産」と定義されています。運用される情報には、現物に関するものだけではなく、伝承や研究、制作者の意図や年代など多様な付随情報が必要です。

また、DXはミュージアムの機能拡張に極めて親和性が高いと考えます。国際博物館会議(ICOM)の初代議長でもあるアンリ・リヴィエールは、ミュージアムを「知識の増大、文化財・自然財の保護と発展、教育、文化を目的として、自然界、人間界の代表的遺産の収集、保存、展示を行う社会施設」と定義しています。

これは、デジタルシステムそのものの概念と親和性が高く、知識の増大、保護、発展を目的としたINPUT = DATA BASE = PROCESSING =APPRICATION の統括的システムと考えれば方向性は見えてきます。

文化財やミュージアムのDXの意義

ICOMのミュゼオロジーの定義では、ミュージアムのミッションには、①収集、保存、修復 ②プログラミング、管理、研究 ③広報活動、教育(公開)の相反する3つのベクトルがあります。

出展:「“Le Musée et La Vie” (邦題ミュージアム&ミュゼオロジー)」 
ダニエル・ジロディ、アンリ・ブィレ 著 鹿島出版協会(日本語版)

しかし、現物にこだわる限り、ここには大きな課題が存在します。なぜなら所謂、保存と公開のジレンマの問題があるからです。つまり文化財は概して貴重であり、保存を優先すると公開できず、公開を優先すると作品は劣化するのです。

ここに大きなDXの可能性があります。例えば、原作の持つ情報を可能な限りデジタル化し、そこから現物と見分けがつかない様なDigital Replicaを生み出す事ができるデータや技術を保有すれば、保存と公開のジレンマは解消され、相反する3つ全てのベクトルにおいてネットワークを介し大きく機能拡張できるのです。これが一つ目の大きな意義です。

また、各国を代表する文化財はグローバルに認知度が高く、その国の文化の象徴的存在であり、国家のアイデンティティそのものと言えるでしょう。しかしながら文化財はカスタムメイドであり、作品が重要であればあるほど貴重なものです。繰り返しになりますが、文化財の役割や影響は大きく、伝承されなくてはなりません。つまり、アウトプット技術に頼るだけでなく、記録、処理といった技術を駆使し、サイズや、微細な質感、反射や正確な色調、付帯されるテキストなど、オリジナルの情報を可能な限り反映したデータを作らなければなりません。そして、文化財は概して一つしかなく、常に消失のリスクがあります。ここにもう一つのデジタル化の意義があります。つまり、有事に備え現物を可能な限り忠実に再現できるようなデータを制作し、保管するということです。

文化財やミュージアムのDXの課題

もちろん、実現のためには、幾つかの壁があります。

一つは、データの質です。現在一般に運用されている平面的データは、明らかに情報が欠落しています。例えば、絵画は粒子サイズや反射構造の異なる顔料の多層集積体であり、これらを記録、認知できる再現方法が必要です。

運用方法においても課題があります。1990年代に始まったミュージアムのデジタル化は、DXにおける理想を追求したものではなく、活用面の必要性から構築されていました。すなわち、出版、インターネットのコンテンツとしてのデータ運用です。統一性のない、色調や品質もバラバラのデータが存在し、どれが本当に近いのか分かりません。あちらこちらに池が存在している様 (私はこれをPOND型と呼んでいます)で、そして現在においても高精細ProjectionやInteractive Viewerなど最新のOutput機器を用いながらも、データの質が低く、オリジナルからの大きな情報の欠落や、別の存在と変わってしまっているケースが多々あります。   

現在多く見られる文化財やミュージアムのデジタル化は、本来の役割から外れるものであり、DXによる機能拡張として目指す形とは言えません。

さらに、国の財産ともいうべき貴重な文化財を忠実に再現できてしまう様なデータ(マスターデータ)は、それ自体が貴重な資産であり、運用について大きなリスクを伴います。

後編へ続く

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